日記、読書、映画。
機械之心
『丁庄の夢』
2007年 04月 16日 (月) 05:01 | 編集
閻連科(えん・れんか、Yan Lianke)の『丁庄の夢 中国エイズ村奇談』(谷川毅・訳、河出書房新社、原題『丁庄夢』)を読む。
カバーに使われている写真は、土饅頭の前にしゃがんでいる少年で、眉を寄せた顔を横のカメラの方に向けているので、土饅頭にロウソクと一緒にそなえられている二枚の写真に写っている中年の男女が彼の両親であり、墓の主だとわかる。深刻なドキュメンタリーだと思い、少し前に書店で見た時はなんとなく避けたが、小説だった。物語の体裁をとっていた。夢中になって一気に読んだ。まず、男の子が道に落ちていたトマトを食べて死ぬ。毒が盛られていたのだ。男の子は丁小強、十二歳。若すぎたため家の墓には埋葬されず、家の裏の塀の下に埋められ、語り手となり、河南省の東部、黄河南岸の貧しい村・丁庄の盛衰を語り出す。
「私」の祖父、丁水陽は少し学があるため、正式な教員ではないが村の学校で教えたこともあり、六十歳の今でも学校に住んで鐘を鳴らしている。真面目で村人から信頼されている。父の丁輝は一目置かれる人物になりたくて、売血が奨励された時、売血をとりまとめ、畑に出ている人の所まで出掛けて採血し、財を築いた。そのため、売血した人やその家族が熱病にかかって死ぬようになると村中から憎まれ、家畜に毒を盛られ、息子も殺される。祖父は父に皆に謝れとしきりに促すが、父は怒って聞き入れず、もっとカネを稼いで都会に住むことを画策する。祖父は熱病にかかった患者を学校に集めて共同生活を始めるが、平穏なのは初めのうちだけだった。
小さな村に蔓延する病、続く葬儀と棺桶……モチーフだけは小野不由美の『屍鬼』と重なるが、救いの無さは『屍鬼』どころの話ではない。死んだ少年が語り手というフィクションの手法を取っているが、書かれていることは現実の出来事に材を取っている。どういう理由かは判然としない(血液製剤を大量生産したかったのだろうか?)が売血が推奨され、現金収入のない貧しい人々が血を売った。その時の脱脂綿や注射針の使い回しのためエイズが蔓延し、住民が次々と亡くなっている村があるのだ。一つや二つではなく。
「私」の語りは事実を淡々と描写するスタイルなため、「私」を忘れて読んでいることもしばしばだった。「私」は父である丁輝も誰も慕うような口ぶりは見せない。読み進むうちに丁輝がそうとうの悪人であることがわかるが、「私」の態度は変わらない。が、ついに、「私」は取り乱す。自身に関わることでどうしても許せないことが起きた時、「私」は祖父に助けを求め、祖父は夢でその声を聞く。「お祖父ちゃん、僕、行きたくないよ、ここから離れたくないよ、――助けてお祖父ちゃん――」
独身で死んだ者同士を結婚させる、冥婚という習慣がある。死後の世界で夫婦となり、あの世で仲良く暮らして欲しいという遺族の願いの表れだが、「私」は父によって菱子という年上の娘と一緒にさせられそうになる。生まれつき足が悪く、持病があり、持病の発作で川に落ちて死んだ娘で、「菱子の霊魂は女性の中でもっとも醜い」(なぜ醜いのかはわからないが、病気のせいではないと思いたい。本人のあずかり知らぬところで醜かったのかも知れない)のに、息子と夫婦にして村から離れた墓所に埋葬しようとする。菱子の父は県長で、いずれ東京(トンチン)の市長になる実力者だからだ。丁輝は村人はおろか、親兄弟も裏切るが、自分のせいで死んだ(殺された)息子も平気で利用する。生きている者が一番怖ろしいなどと簡単でありふれた感想を述べるのは申し訳ない。
クライマックスの、衝撃的な、あるいは予想された出来事があり、その後、三カ月ぶりに戻ってきた丁水陽は村を歩き回るが、病気の者は死に、生きている者は離れ、無人になっていた。同じような無人の村、鎮は中原だけで百にもなる。
雨が降る光景で物語は幕を閉じる。これで一つの村が終わったのではない。終わりが始まったのだ。
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