日記、読書、映画。
機械之心
『”文学少女”と死にたがりの道化(ピエロ)』
2007年 03月 30日 (金) 08:01 | 編集
野村美月の『”文学少女”と死にたがりの道化(ピエロ)』(ファミ通文庫)を読む。
十四歳で天才美少女作家(男なのに)と騒がれ、今はその過去を隠して高校生活を送っている「ぼく」井上心葉(このは)は、文芸部の先輩、天野遠子のために物語を書いている。遠子は本の頁や物語を書いた紙を食べて味わうことが出来るが、代わりに食べ物を味わうことが出来ないのだった。
最初は、突飛な設定と軽い文体に、本当に面白いのか不安を覚えつつ読み進めた。が、それは杞憂で、既に亡くなった人物が、現在を生きる・これからも生き続ける人々に影響を及ぼし続ける怖ろしい話だった。後味が悪いながらも一旦解決したかに思われた事件が、更に続いていたことにも驚いた。
太宰治の『人間失格』が全編を貫く。それがある予断を抱かせ、結果として作者の術にみごとにはまってしまった。巧みだ。
『金毘羅』
2007年 03月 29日 (木) 07:01 | 編集
笙野頼子の『金毘羅』(集英社)を読む。
「また私は如何にして心配するのを止めて金毘羅になったか」という別題はついていない。
伊勢に産まれ、周囲と齟齬を感じながら成長し、長じて千葉に住むようになった「私」は、実は金毘羅だった。産まれてすぐに死んだ女児の肉体に金毘羅が入り込み、ヒトの世界で育てられただけだったという、私は金毘羅という告白。一歩間違うと奇妙な人が変なことを言っているだけになるのだが、そこは絶妙に回避されている。笙野だし。
行ったことがないので、今年は伊勢に行ってみたいと漠然と思っていたが、行くべき所は他ではないかという気にさせられた。
沈む船
2007年 03月 28日 (水) 00:01 | 編集
もっとまえから予兆があったのかも知れないが、最初に気付いたのはコムタン(骨やテール、内臓を煮込んだスープ)が薄くなったことだった。たまに行くファミリーレストランのような焼き肉屋のことだ。不味くはないが薄い。今までのコムタンを水で薄めて延ばした感じ。その次はキムチが変わった。これまでも発酵が進んだりして味が違うことがあったが、ベクトルは一定していて、アミの塩辛がふんだんに使われて辛さと旨味が引き立てあっていた。それが水っぽいキムチに変わった。仕入れ先を変えたとしか思えない。美味い所にではなく、安い所に。
肉はまずまずだが、コムタンとキムチの味が落ちたら、わざわざこの店に来る理由はないと心の隅で思っていると、店長の姿がなくなった。いつ来てもいて、率先してフロアを歩き回っていた働き者の姿が消えていた。
古音(こいん)
2007年 03月 27日 (火) 08:01 | 編集
写真でしか見たことはないが、東大寺開山堂まえに「糊こぼし(のりこぼし)」という、紅い花弁に糊をこぼしたように白い斑がある椿がある。一名を良弁(ろうべん)椿。
修二会(お水取り)では、糊こぼしを模したのかそうでないのか、和紙で作った、紅白の花弁が交互になった椿の造花が二月堂内陣須弥壇を飾るし、奈良にはこの時期だけ作られる和菓子「糊こぼし」もあるので、なんとはなしに糊こぼしに憧れていた。
糊こぼしに似ているような気がして、蕾付きの「古音(こいん)」を買った。咲くと小振りの紅い一重咲きで、糊をこぼしたような白い部分があったりなかったりした。

二十五日日曜日の朝の地震は能登半島地震と名付けられた。
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リコメンド
2007年 03月 26日 (月) 00:01 | 編集
H田さん。
今はちょっと読む暇がないのだけど、信頼出来る読み手が野村美月の『“文学少女”と死にたがりの道化(ピエロ)』(ファミ通文庫)が面白いと教えてくれたので、気になったら読んでみて下さい。
『バブルへGO!!タイムマシンはドラム式』
2007年 03月 23日 (金) 00:01 | 編集
馬場康雄監督の『バブルへGO!!タイムマシンはドラム式』を観る。
借金のあるキャバクラ嬢の真弓(広末涼子)は母親の田中真理子(薬師丸ひろ子)を亡くしたばかりだが、葬儀会場に現れた借金取りの田島(劇団ひとり)が香典を持って行ってしまう。財務省官僚の下川路功(阿部寛)が真弓の前に現れ、君の母親はバブル景気の崩壊を食い止めようとして一九九〇年に行き行方不明だと言われ、真弓は母親を捜し、バブル崩壊を食い止めるためドラム式洗濯機そっくりのタイムマシンで十七年前へ向かう。
過去を変えると未来も変わり、下手な真似(例えば親殺し)をすると自分が存在しなくなるため、タイムトラベラーは歴史に介入してはいけない。それが鉄則だと信じていた。なのに本作の登場人物達は過去を日本国民のためという理由で変えようとして、その影響は良いことだけだと信じて疑わない。過去が変われば未来も変わり、二〇〇七年に戻ってきた真弓と真理子が存在しなくなるということに思い至ることはなかったようだ。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(ロバート・ゼメキス監督、一九八五年作品)を意識しているようだったので、あれも過去を変えてハッピーな未来が来たから、こっちもそうして構わないと思ったようだ。しかしあれは若き日の父と母が結ばれないかもという存在の危機に瀕した息子が悪戦苦闘し、結果として両親は結ばれたおかげで過去は変わらず、オマケでハッピーな未来が新車と共にやってきたのだ。過去は変わっていないし、未来も主人公を消すほど変わっていない。つまり歴史の許容範囲内の変化しかなかったのだ。考え違いも甚だしい。過去を変えようと未来からやって来るのは『ターミネーター』(ジェームズ・キャメロン監督)で、あれは悪いやつだったではないか。下川路は『スポーツ年鑑』を手にしたビフ(『バック・トウ・ザ・フューチャー』に出てくる、堆肥をかぶる高校生)そのもの。つまり悪役。そこまで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をなぞらなくても良かろう。
広末涼子の経産婦とは思えないヘソ周りを堪能させてもらったし、いい気になっている若き日の下川路や田島が景気が良さそうで良かった。一九九〇年の、夜になってから保育園に娘を迎えに行く薬師丸ひろ子も健気で可愛いかった。吹石一恵は眉毛が太くてもチャーミングだった。役者はみんな好演していた。
「受胎告知」
2007年 03月 22日 (木) 00:01 | 編集
特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ ―天才の実像」が始まったので、東京国立博物館へ。
本館一階の第1会場(本館正面の大階段の後)で「受胎告知」を観覧すべく会場入り口に向かうが、入場の前に金属探知器ゲートをくぐり、手荷物も検査される。まるで空港。しかし展示品の価値を考えれば当然のことだろう。
薄暗い会場の奥に展示された「受胎告知」(ウフィツィ美術館蔵)がライティングのおかげでくっきり見える。作品のすぐ前で立ち止まるのは禁止なので、じっくり見たい人は離れた正面で見ている(順路がヘアピンカーブになっている)。最初は思ったより小さいと感じたが、細部まで描き込まれている実物を前にするとやはり大きさを感じた(複製を欲しいと思ったが、実物大だと天井くらいしか場所がない)。筆をおいたあとが見える。遠景に描かれた空の色に溶けたような水色の山々が奥行きを与え、近景を引き立てる。マリアの前に左手に百合の花を持った大天使ガブリエルがひざまずいているが、天使の影が庭の草の上に落ちている。実体のある天使。瞼に刻んで出口へ。
平成館の第2会場に移動。「受胎告知」のデジタル複製画があったが、やけにつるりとしていて(デジタルだから)いかにも複製。この会場ではレオナルドの手稿から立体を作ったりしていて面白い。巨大な馬の前肢左右とか、悪魔みたいな鳥人間とか。あちこちに置いてある椅子に座って休んでいる人も多かった。

庭園開放中だったので本館裏の庭園を一回り。シナノキの根本に紫色の花が咲き乱れており、何の花かと思っていたら、通りかかった人たちが「まー、ハナダイコンもこうして見るときれいね」「庭に植えると、あっと言う間に増えて困るけど」と話していた。ハナダイコン。
大手まんぢゅうの応用
2007年 03月 21日 (水) 08:01 | 編集
添えられた栞によると、大手まんぢゅうは電子レンジで温めたり蒸しても良い物らしい。
日が経って固くなったら、油で揚げるかとろ火で焼くと「いつもと違う味をお楽しみいただけます」なるほど。「又、焼いたおまんぢゅう二個位をお椀にとり、少量の塩を入れて熱湯を注いでいただきますと即席汁粉が出来ます」
そんなにしてまで食べなくても良いだろうと思いながら、オーブントースターでまんぢゅうを焼いてみた。表面が軽く焦げる程度で出して、碗に入れ、塩を振って熱湯を注ぐ。スプーンで崩すとあっと言う間にお汁粉らしきものが出来た。口にすると、漉し餡なので滑らかな、ちょっと高そうなお汁粉だった。
考えてみればほぼ同じ材料で出来ているのだから、饅頭がお汁粉になるのも不思議ではない。
それよりも驚いたのは、この数日で自分の中で漉し餡の評価が高くなっていたことだ。小豆餡はどちらかと言えば粒あんの方を好んでいたので。
『朱唇』
2007年 03月 20日 (火) 00:01 | 編集
井上祐美子の『朱唇』(中央公論新社)を読む。短編集。
昔の中国を舞台に妓女達が主人公の短い物語が幾つか。どれも興味深く読んだ。女達の境遇がことさら惨めに描かれないのは、才覚や芸があればこその自信と誇りに裏打ちされているからだろう。才覚のない女はひたすら惨めなだけなのも透けて見える。
収録作品の一つ「歩歩金蓮」も一人の美しい妓女が主人公。
酔杏楼の売れっ子妓女の李師師の元に、趙十一郎という男がやってくるが、実はこの男は今上皇帝(宋の徽宗)。男は通ううちに師師を気に入って落籍しようと銀を積むが、師師ははっきりと断る。「どれほどご寵愛いただいたとしても、宮中では、あたしは大勢の皇妃がたの末座に就かねばなりません。でも、ここではあたしは、だれに膝を屈する必要もありませんのよ」と。
タイトルにもなっている「歩歩金蓮」の「金蓮」は纏足の美称で、師師も美しい小さな足をしているが、この足はいわば観賞のためのもの。師師の金蓮は男が都を追われて初めて固い地面を歩きだす。
徽宗は風流天子とも称された芸術家で、優れた書画や、痩金体という書体で知られる。あの細くて気取った書体はあまり好まないが、後世に残る独自さは大いに評価する。
『タルドンネ ―月の町』
2007年 03月 19日 (月) 00:01 | 編集
岩井志麻子の『タルドンネ ―月の町』(講談社)を読む。
貧しい人々が住む高台の町は、月だけはよく見えたのでタルドンネ(月の町)と呼ばれた。タルドンネで育った梁仁哲(ヤンインチョル)は出張マッサージ嬢を呼び出しては殺していた。
最初、梁仁哲がどんな風に女と会い、なぶって殺すかが余すことなく書かれ、残虐な行為もインチョルに寄り添って淡々と描写される。日本統治時代を生きた老女やインチョルと同い年の刑事、ホテルマン、謎めいた日本女の竹内麻衣子がインチョルとすれ違い、やがてこの物語が竹内麻衣子という小説家が書いている小説だとわかったとき(更に言えば実際に読んでいる本は岩井志麻子が書いている)、自分の見ている夢が他人の夢だったような感触を覚えた。
同じく韓国の連続殺人事件(未解決)に材を得た『殺人の追憶』(ポン・ジュノ監督)を思い出さずにはいられなかった。『タルドンネ』の被害者達は主に(というのは、インチョルは練習のため裕福な老人達を殺してもいた)売春婦で、『殺人の追憶』の被害者達は売春をしていなかったので、女を殺すのに理由は要らないのだと思った。韓国では、ということはなしに。
読んでいる間中、血と精液と辛ラーメンが混ざり合ったような匂い(嗅いだことはない)が、鼻腔の奥に居座って、常に胃が重苦しかった。
竹内麻衣子はどう見ても岩井志麻子だったので、登場するホテルマンも岩井が公言している韓国愛人なのだと思うと、生々しい性愛場面は、覗き見をしているようであった。
献血、モス、京都特集
2007年 03月 18日 (日) 20:01 | 編集
献血ルームに行く。成分献血(血小板)。辺血の時に痛みがあったので、辺血の速さを少しゆっくりにしてもらう。針を刺したナースにさかんに謝られるが、たまにあることなので、そんなに気にしなくてもと恐縮する。
献血の後、モスバーガーでチーフォンドッグを食べる。
京都特集の『サライ』を買った。京都に行く予定はなくても、京都に興味があるのだと思った。いざというときに備えるというか。
ネズミ除け
2007年 03月 17日 (土) 22:01 | 編集
電車の中で、中学生くらいの孫がいる二人のご婦人が会話をしていた。ご近所さんらしい。

これくらいの、大きい茶色い猫がいるじゃない、毛の長い。(ああ、あの汚いの)馴れるとけっこう可愛いわよ。その猫、この頃よく家に来て、庭の日当たりの良いところで寝てるのよ。でね、うちって古いから、姿は見えないけどよくネズミが走ったりするのよ、トコトコトコ……って。だけど、あの猫が来るようになってから、ネズミがいなくなったのよ。猫がいるだけでネズミ除けになるのね。でもこないだ、一日雨が降ったじゃない、そしたら天井裏でネズミがトコトコトコって。晴れて猫が来たらまたいなくなったけど。猫はオシッコをそこら辺にするから臭いんだけど、でもネズミが来なくなるならいいかなって、そのまんまにしてる。(へぇー)
朝飯前
2007年 03月 16日 (金) 07:01 | 編集
思い立ったので、そろそろ彼岸だし、いくらなんでもと先月買った根巻きの春蘭を植え替える。
用土はすでに洗ってザルにあげていたので、一鉢分の用土を取り出し、マグアンプを混ぜる。プラ鉢に鉢底石を入れ、軽く根を洗った蘭を立て、細かく切った段ボールと用土を入れていく。最後にたっぷり水遣りをし、土が飛ばないようネット(スーパーでタマネギやミカンが入っているような、袋状の網)をかける。名札を付けるのも忘れない。
オムレツとシャンパン
2007年 03月 15日 (木) 09:01 | 編集
『白州次郎・正子の食卓』は、二人の娘の牧山桂子(まきやま・かつらこ)が著したものだが、おしまいに少し長い文章を書いている。その最後の部分。
「晩年太りぎみになって来た父が、昔のどこか異国での思い出なのか、大きなオムレツを食べながらシャンパンを飲みたい、としばしば言っておりました。私はなんだか面倒で、そんな食事をしたらまた太るよと言い、とうとう食べさせてあげなかったのが、今では心残りです。」
こういう文章を読むと、オムレツとシャンパンの組み合わせに想いを馳せることになるのが常なのだが、食べさせてあげなかったのが心残りと続き、不意を打たれた。
ここに、親を亡くした娘がいる。先立たれた者に、後悔しない者などいるだろうか。
大手まんぢゅう
2007年 03月 14日 (水) 20:41 | 編集
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岡山からの到来物。大手饅頭伊部屋の「大手まんぢゅう」
品の良い甘さの漉餡を、甘酒で発酵させた生地で包んだ小振りな薄皮饅頭で、百鬼園先生もお好きだった備前名物。
ご馳走様でした。
『扉の外』
2007年 03月 14日 (水) 00:01 | 編集
土橋真二郎の『扉の外』(電撃文庫)を読む。
修学旅行に行く途中だった二年四組の三十一人は、気が付くと一部屋に集められており、全員の手首にはブレスレットがはまっていた。呆然とする彼らに、人工知能ソフィアは、地球が滅亡に瀕しているので宇宙に出て楽園を目指す途上だと告げる。自分に従えば生きていくことが出来、ブレスレットを外すとカウントされなくなって恩恵が受けられなくなると言われて、それにおとなしく従うクラスメート達に違和感を覚えた千葉紀之はブレスレットを外す。
家庭内で母親に抑圧されている紀之は他人に支配されるのが不快で、支配しようとする気配を察知すると反発し、実行に移してしまうのだった。母親や姉と親しい関係にない紀之だが、物語中で関わってくるのも女生徒ばかりだった。肉体関係にある生徒(コンドームなし)、優等生の委員長、外面の良い幼なじみ、女神。読んだことは無いが心理テストの回答でも読んでいるような気になり、女性恐怖とか、去勢不安とか、そういう単語がちらついた。
不条理にも奇妙な閉鎖空間に閉じこめられるというストーリーは『CUBE』(ヴィンチェンゾ・ナタリ監督)に似て、閉塞した場所で人間関係がほころびていく様は『es[エス]』(オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督)を薄めた感じ。ラストは『回路』(黒沢清監督)にちょっと似ていたが、もう少し救いはあった。田中啓文の『忘却の船に流れは光』(早川書房)も思い出したが、駄洒落で終わってはいなかった。
阿闍梨餅(あじゃりもち)
2007年 03月 13日 (火) 00:01 | 編集
京都には興味がない、と思っていたが、日曜日にデパートに行ったら京都の観光と物産展みたいなのをやっていて、混雑しているのに覗いてみた。その中で、客は途切れないが行列は出来ない程度の店があり、阿闍梨餅(あじゃりもち)というものを売っている。食べたことはないが、京都では店に行列が出来ると聞いたことがあったので、一つ買ってみた。百五円。
包みを開けてると、どら焼きのような、茶色い饅頭を平たくしたようなものが入っていて、そういう物だろうと思って食べたら予想外の歯ごたえ。皮がもっちりしている。中には小豆餡。阿闍梨(高僧)が被っていた笠に似ているから阿闍梨餅というそうだ。丸くて、中央が盛り上がっているので笠に似て無くもない。癖になりそうな感触に、人気があるのも納得。
店名が満月なので、最初は阿闍梨餅のことを満月という銘の菓子だと思ってしまった。

『京都本』
2007年 03月 12日 (月) 11:01 | 編集
京都には興味がない、と思っていた。ところが過日(先月)、書店の前で女性達が「京都の人が作った、京都のガイドブックです」と関西のイントネーションで売っているのを見て、『京都本 キャラ別キョートBEST!!』(京阪神エルマガジン社)を買った。京都に行く予定なんかないのに。オマケに祗園小石の飴とメモ用紙をもらった。
家に帰って手に取ってみたら、表紙の紙がほんの少しだけ小さくて、本紙がはみ出ていた。背の分を取るのを忘れたのかとも思ったが、グレゴリ青山の『しぶちん京都』を思い出し、「京都の人はしぶちんだから」と納得することにした。
そしてまだ中は読んでない。
北京故宮博物院展
2007年 03月 12日 (月) 05:01 | 編集
横浜高島屋ギャラリーで開催中の「北京故宮博物院展 清朝末期の宮廷芸術と文化」を見る。
故宮の宝物が一同に会し、というのを期待すると落胆するが、そもそもそんなことはどこにもうたっていない。
清朝の最後の煌めきがあり、紫禁城で暮らしていた皇帝達の温もりが残るような展示品が多かった。食器とか、婉容が乗った自転車とか、李連英ら宦官を脇侍に菩薩にコスプレしている西太后の写真とか。
『ナイトミュージアム』
2007年 03月 11日 (日) 22:15 | 編集
ショーン・レヴィ監督の『ナイトミュージアム』を観る。先行上映。
ニューヨークに住むラリー・デイリー(ベン・スティラー)は無職だが、離婚したため週に一度か二度しか会えない息子を失望させないために定職を求め、自然史博物館の夜警となる。博物館で一人になった夜、ラリーは動き出した恐竜の骨格に追い回され、這々の体で同僚に電話を架けるが「マニュアルを読め」の一点張りでとりつく島もない。この博物館では夜になると展示物に命が吹き込まれ動き出すのだった。
科学博物館に行って、標本や剥製を見ていて感じる、「夜中に動いているのでは? 歩き回っていたらどうしよう」をそのまま映画にした一本。冒険も陰謀も笑いもあり、努力・友情・勝利も、達成感もあった。
博物館のガイドのレベッカ(カーラ・グギーノ)が、地味ながらセクシー。というか、自分の魅力に気付いていない風なのが良かった。
字幕で読んだのだが、このレベッカの台詞に、「四年前に博士論文を書いた」というのがあって、そのあとで「六百ページを越えてまだ書き終わらない」というのはちょっと変だと思った。(字幕は戸田奈津子)
ほんの数秒の、ガム好きのモアイ像の顔にチューインガムが張り付いてフガフガしているのを兵馬俑と獅子が眺めている場面が、なんとはなしに微笑ましかった。
ラストのアース・ウィンド・アンド・ファイヤーの『セプテンバー』が効いていた。

『インカに眠る氷の少女』
2007年 03月 09日 (金) 17:01 | 編集
ヨハン・ラインハルトの『インカに眠る氷の少女』(畔上司・訳、二見書房)を読む。
スペイン人が侵攻する以前の南米、インカでは神に対する人身供犠が行われており、いけにえに選ばれることは名誉なことだった。ある一人の少女は標高六三一〇mのアンパト山(現在のペルー)山頂付近で神に捧げられたが、五百年後の一九九五年、「私」と地元登山家のミキ(ミゲル)によって良い状態のまま発見される。彼女にはフワニータという愛称が与えられ、やがて「氷の少女」として世界中で有名になる。「私」は南米の他の高山の祭祀遺跡にもフワニータのようなミイラが眠っているのではないかと探し始めるが、それは乱暴な盗掘者達(彼らはしばしばダイナマイトを使う)に先んじるための時間との戦いでもあった。

「私」ことヨハン・ラインハルトはアメリカ人で、一九八〇年以降は二十年もアンデス地方で人類学研究をしている。ペルーで氷の少女を発見した直後、「私」は考古学者ホセ・アントニオ・チャーベスの在籍するカトリック大学にミイラを預けることにし、混乱が生じるのでマスコミへはまだ情報公開しないで欲しいと要望するが、文化研究所の考古学者パブロ・デ・ラ・ベラ・クルスが何かと邪魔をする。嫉妬と猜疑心と功名心の三点セットを隠そうとしないパブロ。「私」は永年のつき合いからホセを信頼し、パブロを信頼していないのだが、なるほどと思う。「パブロとホセは、ともに大学生だったときから憎しみあっていたし、パブロは、カトリック大学の宿敵である国立大学で教鞭を執っていた」……二人の出会いがどんなだったのか知らないが、確執に年期が入っているのは確からしい(パブロの言い分も聞いてみたい気がする)。
やがて「氷の少女」の元に研究者が集まり、ヨーロッパからはアイスマン(アルプス山中で発見された氷結ミイラ)チームもやってくるが、みな彼女と関わりたがって現場は混乱する。その中で、先コロンブス時代のアンデス地方の織物の専門家でアメリカ人のウィリアム・コンクリンが、自分の為すべき事を知っていて好感を持った。例えば、ミイラが纏っていた衣装も凍っているが、調査のため解凍したり冷凍したりを繰り返して傷むことを懸念すると、コンクリンはアメリカ合衆国ですでに繊維の凍結解凍実験を行っており悪影響が出ないことを知っていた。
「この繊維はアルパカ製だから、そういう条件下でも生きていきます」
打てば響くような専門家ぶりにほれぼれした。
「氷の少女」発見後もミイラは発見され(時には盗掘者によって破壊されていた)、一九九八年、「私」がミスティ山(ペルー)に登る時、アルゼンチンの二五歳の考古学者コンスタンツァ・セルーティがパーティーに加わる(コンスタンツァは黒髪で意志の強そうな目をした屈強な美女……とは書いてないが勝手に想像した)。この登山の後に行われたユヤイヤコ山(アルゼンチン)への登山には、コンスタンツァの他にアルゼンチンの学生三人が参加するが、そのうちの一人アントニオとコンスタンツァの仲が険悪になる。アントニオはコンスタンツァを自分にだけ無愛想でいばっていると感じていたのだ。二人が和解して親しくなったら、コンスタンツァはツンデレ認定だなと思った。
しかし、少女のミイラ二体と少年のミイラが発見され、それどころではなくなる。カバー写真にもなっている年上の方の少女は、髪を何十本もの三つ編みにしており、それが崩れておらず、まるで眠っているかのようで、「乙女よ、こんなところで寝ていたら風邪を引きますよ」と声を掛けたくなるような姿をしていた。
一緒に発見されたこのミイラ三体はDNA分析をされ、見ただけでは判らなかった様々なことが明らかになるくだりは読んでいて興奮した。科学でここまでわかるのかと。三人は兄弟姉妹ではなく、母方が近親者でもない。年上の少女は現在のペルー南部のカナバコンデ村の住人と近く、少年はユヤイヤコ山からはるか南方にいたマプチェ族に近いらしい。(ちなみにコンスタンツァのDNAも分析され、ネイティブアメリカンの血が流れていることが明らかになり、彼女を驚かせ喜ばせた)。ミイラが五百年前に確かに生きて暮らしていた人だと感じられた。
高山での発掘の辛さ、人間関係の困難が世紀の大発見の背景にあったことが生々しく書かれていて面白かった。
フワニータを発見した時に一緒だったミキと「私」は十五年来の知り合いだったのに、それっきりになってしまった。ミキは自分が軽んじられているように感じたのだろうか。
ナショナルジオグラフィックスが資金提供をしているため、情報はナショジオに真っ先に公開されるし、ラインハルトは赤裸々に語っているようだが自分に不都合なことを隠しているのではという疑念は常に付きまとったが、興味深い一冊だった。

ところで、フワニータは日本にも来ている。一九九九〜二〇〇〇年に巡回展(悠久の大インカ展)があり、ポスターには頭に赤い羽根飾りを着けてこちらを見つめる生前のフワニータを思わせる少女のイラストが描かれていた。描いたのはクリス・クラインで、モデルはホセの娘だったそうだ。
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遠くはない
2007年 03月 08日 (木) 00:01 | 編集
『文學界』四月号で、山田詠美と河野多惠子が文学賞について対談をしていた。その中で山田が、瀬戸内(寂聴)さんに聞いたのだけどと若き日の河野が谷崎潤一郎を恋するように慕っていたエピソードを明らかにしていた。
河野が瀬戸内のアパートを訪れたとき、谷崎の家が近いからと出掛けて行き、扉に口づけて帰って来たらしい。ところがその扉は隣家のもので、あとでこの話を聞いた谷崎が「当たらずといえども遠からずだな」と言ったという。
中国春蘭「翠蓋」
2007年 03月 07日 (水) 00:01 | 編集
中国春蘭「翠蓋」が開花。
花付き株を買っても翌年また咲くとは限らない(普通は、既に花芽を着けるだけの力がある株なので、咲く)ので三輪も咲いて嬉しい。
梅雨が明けたら二週間ほど水を遣らず、「生命の危機」を味わわせることで春蘭に花芽を着けることを促す――毎年そうやっているのだが、他にも咲いた株があったし昨年と一昨年の世話にどんな違いがあったのかわからない。蘭の声が聞こえるようになったのだろうか。
翠蓋の花は丸く、小さく、果実のようなすっきりした甘い香りがする。
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これから読む本
2007年 03月 06日 (火) 09:00 | 編集
「まあ騙されたと思って読んでみて下さい」とは言われないが、土橋真二郎『扉の外』(電撃文庫)を薦められた。いくつか回った書店にはなかったが、何気なく覗いた書店で発見した。電撃小説大賞金賞受賞。
が、読書中のヨハン・ラインハルトの『インカに眠る氷の少女』がものすごく面白いので、『扉の外』にはなかなかたどり着かない。ペルー山中で発見された五百年前の少女のミイラ(神に捧げられた)にまつわる出来事が書かれているが、高山での発掘作業であるため酸素が薄いし、寒いし、屁は臭いしで大変。世紀の大発見もすごいが、人間関係がどうしようもなくて、良い。
『カンバセーションズ』
2007年 03月 05日 (月) 00:00 | 編集
ハンス・カノーザ監督の『カンバセーションズ』を観る。
結婚披露パーティーの行われているホテルのバンケットルームで、花嫁付き添い人のドレスを着た女性(ヘレナ・ボナム=カーター)が、煙草を吸いたがってそわそわしている。それを見た男性(アーロン・エッカート)が彼女に声をかける。交わされる会話から、二人の関係、過去、現在が明らかになる。
画面がほとんど常に二分割されていて、向き合って会話を交わす二人の顔がどちらもこちらを向いていたり、フレームの半分が妄想や回想になったりして面白かった。
若き日の女性をノラ・ザヘットナー、男性をエリック・アイデムが演じる。二十年前の二人は髪が長く、美しく、幼い。二人は二十年後も美男美女だがかつてあったキラキラしたものは失われており、代わりに歴史が刻まれている。色々なことが起こっても起こらなくても、それなりのものが時間と共に人に降り積もる。それが人生。
マーオリ ―楽園の神々―
2007年 03月 04日 (日) 00:00 | 編集
東京国立博物館平成館で特別展「マーオリ ―楽園の神々―」を見る。ニュージーランド国立博物館テ・パパ・トンガレワ名品展。特別展だが平常料金で見られる。
ニュージーランドに千年前から暮らすマーオリの人々の信仰に基づいた美術品の数々。
展示の一番最初に、深緑色の石が置いてあり、触って下さい(ただし他の展示品には触れないで下さい)とあったので触る。会場とアオテアロア・ニュージーランドを結びつけるらしいので触る。すべすべしていた。ポウナム(軟玉)タッチストーン「マウリ石」。
ターモコという入れ墨が興味深かった。身体だけでなく顔にもし、鑿で彫って染料で色を着けるのだが、彫りを深くするために二度彫った人もいたらしい。年に一度の祭で神輿を担ぎ諸肌を脱いだ時に見せるためだけに彫り物をする江戸っ子みたいだ。独自の美意識に身を捧げる人々。ターモコのデザインは当然のようにトライバルで、もし彫り物を入れるならこういうのにしようと思った。
カオ・フルフルは鳥の羽を編んで模様を出したマントで、「鶴の恩返し」で鶴女房が自分の羽で織った反物はこういうものだったのかも知れない。いや、違うか。
大虹(おおにじ)
2007年 03月 03日 (土) 22:05 | 編集
20070303220515
東京国立博物館。本館脇を通って平成館に行く途中、飲み物の自動販売機の後に椿が何本か植わっている。すでに咲いているもの、これから咲くもの、どれも蕾が沢山着いていた。
画像は赤に白い斑が入った大輪の「大虹」。花がメロンパンほどの大きさがあった。
本館の壁を前に見て左端に植わっている椿の葉が金魚葉だった。葉の先が裂けて金魚の尾のようになっているので、ツバキの葉は楕円だと思っていると意表を衝かれる。
『ミミズクと夜の王』
2007年 03月 02日 (金) 00:00 | 編集
紅玉いづきの『ミミズクと夜の王』(電撃文庫)を読む。
鎖の手枷足枷をつけられ、額に焼き印を押された少女は、魔物が跋扈し、魔物の王が支配する森に足を踏み入れる。魔王に一口に食べてもらうために。少女の名前はミミズク。
奴隷として家畜のように扱われてきた少女が死を望んで森へ入る。魔物の領域の森で、ミミズクは人ならぬ者達に出会い、生き直す。死と再生の物語が入れ子のように幾つも語られ、大きな奔流となり、また源に戻って行く流れには心が動かされた。
それにしても、登場する名前のある女性は、みな過酷な境遇にあった。虐待され続けたミミズク、自らの命と引き替えに子どもを産む王妃、身ごもることが出来ない妻……そして全員がその運命を受容し、自ら決定を下して前向きな姿勢を崩すことはなかった。
「あとがき」で「安い話を書きたい」と言い続けていたとあったが、それは「解説」の有川浩が言うところの「奇をてらわない」「まっすぐ」な話を書きたいの韜晦ではなかったのだろうか。
カバーは磯野宏夫。挿絵はない。ミミズクの手足に食い込みそうな鎖も、魔物も、塔の中の王子も、美しい魔王も、想像するほかない。
ミミズクの爪は黒く汚れていたのだろうと思う。
DECADE
2007年 03月 01日 (木) 10:00 | 編集
タワーレコードでポイント二倍だったので、スガシカオの二枚組『 ALL SINGLES BEST 』と、HARCOの『 PICNICS -BEST OF HARCO- [1997-2006] 』を買う。HARCOもDVD付きの方を買ったので二枚組。そしてどちらもベスト盤、どちらも前世紀末から今世紀にまたがる十年の軌跡を収めている。スガの一番古い曲が「ヒットチャートをかけぬけろ」で一九九七年二月発売、最新が二〇〇六年九月発売の「午後のパレード」なので、HARCOのそれと時間はぴったり重なっている。随分違う二人だが。
さっそくスガのCDを聴いてみる。一曲目は最近テレビでもよく耳にする「午後のパレード」。キャッチーで緻密、改めてその職人技に舌を巻く。
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